漁書日誌 3.0

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歌舞伎「恐怖時代」など

つい先日、八月納涼歌舞伎@歌舞伎座での第一部に行ってきた。第一部で、午前中から芝居というのは昼夜逆転生活者にはなかなかキツイものではあったのだけれども、なにせあの谷崎の「恐怖時代」それも、一応演出名義として武智鉄二の名が掲げてある今回の公演である。あの伝説の武智演出「恐怖時代」である。確か堂本正樹先生も、三島由紀夫澁澤龍彦もどこかでこの芝居について触れていたと思うのだが、ワタクシにとってそれはイメージの中で勝手にどぎつくど派手な血まみれ芝居として伝説化されていた。これを逃す手はないと、重い腰を上げて知人に三階席3000円のチケットを取ってもらったのであった。歌舞伎座は、実は新しくなってから初めて。

で、「恐怖時代」である。谷崎潤一郎のこの戯曲は、「中央公論」大正5年3月号に掲載されるも、当該作は確か安寧秩序の理由により発売禁止となった。後に単行本「恐怖時代」(天祐社)刊行時にはテキストを改訂している。数ヶ月前にこの「中央公論」を古書で購入していたので、前日改めて読み直し観劇に臨んだのであった。
ある意味さもしい話ではあるが、ワタクシいま現在贔屓の役者もいない。だから演技っぷりをじっくり近くでというようりも、全体を見渡せる席でどんな演出で展開するのかというのをあれこれ考えながら見たのであった。これは、例えば贔屓の役者の演技に見とれ淫しつつその劇場的官能性とでもいうべきものを素直に堪能するような(おそらく)本来的な見方からすれば無粋でつまらない人間のすることなのかもしれない。こんなことをいうのも、正直、ワタクシにとってはパッとしなかったからである。
でまあ、大正10年の初演は有楽座で七代目幸四郎らによって上演された本戯曲だが、もともと歌舞伎台本というわけではなくキッチリとした近代劇(ダイアローグによって人間心理が動きドラマが展開する)なので、ちょこちょこテキストレジーというか、台詞のはしょりがある。上演時間、そして歌舞伎という様式のためであろう。別段それによって作自体が変わってしまうわけでもなく、現実的な処理だろう。
しかし、「武智演出」というので期待が高すぎた。ちょっとガッカリなところがあるなあなどと感じてしまった。まず、噂に聞くところの武智演出におけるブラッディーさ。すなわち、流血、血の噴出がたいしたことなかったということ。思い切りど派手な血みどろを期待していたのであった。これは堂本先生にかつて聞いたのであったか、南座でやった時は所轄の警察署に実際に惨殺された場合はどのように血が噴き出したかという取材をしかなりリアルで生々しい流血処理をしたらしいとか、客席に血飛沫が飛び散ってクリーニング代を請求されてけっこうな出費になってしまったこと等々。それから例えば、発禁になった谷崎の原テキストでは、例えばお由良が梅野に殺されるところなんかは、眉間をガツンとやられて血で陽に溶けた飴玉のような頭になって目玉と舌だけが飛び出していたとか、梅野が殺されるときは頭蓋と頭皮の間をスパッと斬られて髪の毛付いた頭皮がザッと落ちる…とか(まあおそらくこういったト書きが禁忌に触れたのであろう)なかなかに残虐なグロテスクさがあるのである。
次にガッカリというか違和感があったのが、そこは笑うところじゃないだろうにというシーンでとにかくお客が笑う。なんでこんなシリアスなシーンで笑うんだろうというのが幾つか。裏切りが発覚するシーンとか。コミカルな珍斎があれこれするところで笑うのはわかるのだが、何故シリアスなシーンで笑うのだろう。興ざめ甚だしい。笑うという反応でなんとか目の前のシーンを腑に落ちるストーリーとして納得しようというのであろうか。
しかしまあ、上記の二つは期待が高すぎたのとワタクシの気のせいなのかもしれない。がしかし、三つ目のガッカリはちょっとこれはないだろうというものであった。
ラストシーン、一番の悪女・お銀の方が、結局最後にあれこればれて、愛人の伊織之介が勢いで殿様を斬殺しちゃったので、仕方ねえ差し違いで死ぬかいなあというシーン。ひたすら欲望と悪のみで突っ走ってきて、血も涙もない悪人としては野望達成の可能性がなくなって生きる意味もないのである。登場人物は冷酷非情な悪人ばかりで(コミカルな珍斎ですら娘より自分の命の方が大事である)、悪人同士で裏切りあい、殺し合うことになるという、悪という論理のみでドラマが展開し残虐性が遺憾なく発揮されるというもともとの戯曲である。それを、あろうことか、若君である照千代(原作では世継ぎにしようと画策するが結局舞台には出てこない)が、お銀の計略がばれ全てを知った殿によって首を切られるという設定にし、最後、お銀の方が我が子の生首抱いておいおい嘆かせて、もう絶望だ死のうという流れにしていた。つまりは「こんな悪女でも子に対する愛情が…」みたいな余計な脚色を施されていたのである。これが最悪。おそらくそういうのイヤであからさまに欲望と悪のみで動くブルータルな人間心理を描くのが戯曲の作意だろうに(例えば谷崎同時代の作である「或る調書の一節」などを見よ)、それぶちこわし。悪人にとっちゃ、ガキなどただの道具なのに。
「恐怖時代」って、意匠としては旧劇的なものでありながらも、そこで描かれているのは欲望による「悪」がどのように人間を動かしていくのか、殿である采女正のサイコパス的な「異常性格」を織り込んで、つまり情ではなく心理というモダニズムのメスで切り込んだ、義理・人情とか情話という型に回収されないところの極めてモダンな心理劇なのであり、その上で残虐の官能性みたいなものを舞台上に現出させるところに本作の本質がある、というのがワタクシの「恐怖時代」論であったので、そのまるきり逆の、情に回収するようなつけたりにそれはないよとガッカリきたのであった。
今回の公演に関するネット記事などをあれこれと読んでみると、これでは客が納得しないだろうとのことでの改変だった由。しかしいってしまえば、それならテキスト選択の間違いだったのじゃないのなどとも思ったりする。まあ、昼飯前(!)の第一部になんかしないで、これを第三部にまわし、それこそ常連ではなくお客として呼び込みたい新規の若者向けに敢えてキワモノ的にやってもよかったのかもしれない。それはともかく、文学的な解釈と、興行の実際との間の現実的な軋轢をあれこれと考えさせた舞台であった。11日所見。
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これは、先日赴いてきた日本SF展@世田谷文学館(開催中)である。筒井康隆星新一らを中心にした展覧会。一応は戦前のものとか「宇宙塵」なんかも触れていたが、SF作家協会を中心にしたものか。このへん詳しくないのだが、知識のない部外者からすると、それなら日本空飛ぶ円盤研究会とか宇宙旅行協会やら、山野浩一やらあの辺ももっと触れてくれればなあなどと思ったのであった。それはともかく、今回は図録も凝りに凝っていたのだが、会場限定発売(通販はしないとのこと)の豆本というのが気になっていた。限定というので、部数も限られ会期中に売り切れたらやだなあと思っていたのだが、聞いてみると、1500部販売するそうで、それなら品切れもないだろうと、既に入手した身としては正直ちと残念でもあった。
筒井康隆星新一小松左京「きつねこあり」(日本SF展)2014年7月19日発行帯ビニル袋500円

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三島由紀夫の肉体

三島由紀夫の肉体

三島由紀夫の肉体」は著者からご恵送いただきました。ありがとうございます。また文春文庫の方は、本文が少し改訂されているのと、文庫版あとがきを読みたくて購入。