漁書日誌 3.0

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まど展ほか/神奈川芸術劇場「金閣寺」観劇

書窓会最終日。注文品無し。30分くらい閉場間際の会場を回る。幾つか欲しいものもなくもなかったが、この金欠時に無用とばかりに棚に戻す。で、結局文庫本を。

太宰治全集」(ちくま文庫)1,2,4,7,8,9巻各200円
山岸外史「人間太宰治」(角川文庫)200円
奥野健男太宰治論」(角川文庫)100円
いま必要というわけでもないが、まあ使うときが来るかもしれないし、ちくま文庫版が200円なら、と。3巻と10巻は前にちょっと入り用で定価購入していたし、あとは二冊のみ。
で、その後扶桑書房にて以下を購入。

長谷川時雨「旧聞日本橋」(岡倉書房)凾昭和10年2月6日発行1500円
谷崎潤一郎「盲目物語/春琴抄」(非凡閣:新選大衆小説全集18)凾昭和9年8月12日発行200円
谷崎潤一郎「刺青 他九篇」(春陽堂大正13年7月15日25版凾200円
江見水蔭「今弁慶」(博文館:少年文学3)明治26年8月6日5版印裸200円
泉鏡花「湯島詣」(春陽堂大正13年11月25日改版3版凾2000円
長谷川時雨のこれ、元版凾付でこのお値段は嬉しい。それから非凡閣の新選大衆小説全集、この谷崎の巻って実はなかなか見かけなくてようよう入手。戦後のものまで含めたら膨大になるので戦前もののみこうした全集ものは買うようにしている。水蔭のは、桂舟木版口絵。
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で、金曜日に観に行った舞台「金閣寺」@神奈川芸術劇場。はしなくも、雪降りしきるなか雪景色の金閣寺となったわけだが、こけら落とし公演である「NIPPON文学」特集の第一弾が「金閣寺」で、今回、初めてこの劇場に赴いたがなかなかよさそうなところではあった。

さすがにジャニーズ人気なのか、若い女性客が多いように見受けられた。今回は一階席、11列の上手寄りで観劇。ガイジンが脚色したものを元にして台本を作成したということだが、そもそも小説「金閣寺」が舞台化されるのは昭和32年5月の新派公演以来。映画だとか、舞踊化とかならあるのだが、台詞劇としてはだから54年ぶりか。だからどういうものに仕上がるのか前々から楽しみにしていた。
(以下ネタバレ的に書きますので読みたくない人は読まないでください)
で、装置は稽古場の装置がわざわざ仕込んである。黒板もあって教室のようでもある。客入れ時から幕は開いており普段着の俳優がバラバラといる。時間が来ると照明が変わり、全員が金閣寺の文庫本を取り出して部分部分を代わる代わる読む。もしやこれは「コーラスライン」みたいな、これから「金閣寺」を上演しようという俳優の話かと思わせたが、違った。そこで溝口役の森田がクローズアップされ、突然装置やらも変わって劇世界に突入。装置といっても、舞台に何気なくおかれているテーブルだの平台だのをブロックのようにその場その場で組み合わせるというもの。で、主役・溝口だが、本人の台詞と、内面の台詞と、それから、内面の嵐を象徴するような男(これがまた特徴的な、口で音を出すホーメイというのだそうだ)が三つどもえになって話が展開していく、ように見えた(が、内面の嵐といったけれども、これが実は金閣鳳凰の象徴)。
さすがにミュージカルで勝負してきた演出家だけあって、先述したような装置の処理や、それに連動した場面展開がテンポよく進む。照明や音響のみならず、映像の投射まで駆使して舞台的な技巧・処理をうまく組み合わせながらの展開は、観念的な台詞がどんどん出てきても客を飽きさせず、ダレ感がまったくない。台本もまた、多少の省略や順序の入れ替えなども見られたが、重要なエピソードは逃さず、といってダイジェスト版という感じでもない。鶴川への、友情にしてはちょっと熱すぎる視線を送る箇所などもきっちり描かれる。
そして、さきほどの溝口の内面の象徴かのごとくに見えた長髪の男は、実は金閣寺の象徴であることが次第にわかってくる。ヘタな装置や照明などで金閣をあらわすのではなく、この男と舞踏手らを使って処理するという着想がよい(ラストの放火ですら、一般的な赤い照明でメラメラ…なんてことはしない)。でもこのくらいの着想がなければ客はみな妙にあの具体的な金ぴかの金閣寺像を想起してしまってダメなのかもしれない。そしてまたこの金閣寺の象徴のボイスサウンドホーメイ)がまた尋常ではない。クライマックスでは大音響のノイズマシンのようでもあり、ただ音響というよりは客席がブルブル振動するくらいの体験をさせてくれる。
それに加えて、もうはなから意外というか驚くくらいだったのが、溝口演じる森田剛の熱演ぶりであった。丸坊主にしてドモリの台詞をしゃべるところは、これはさすがに本物をよく観察したなというのがわかるリアリティで、溝口を体現していた。実のところテレビなんかで見かけるアイドル的イメージから、溝口を演じられるのかと不安があったのだが、反省する。正に目から鱗。こんなによい演技をする俳優とは思いもしなかった。
またこの舞台は主題も明確で、それがダイジェスト版ではない所以でもある。それが、ドモリという不具におけるディスコミュニケーションというか、他者との距離を測れず、断絶感に苛まれた孤独という、ある種現代にも通じる普遍性をもった問題のクローズアップ。これがまったく成功しており、ポンポン進むテンポの流れの中で、ここぞという場面に溝口・鶴川・柏木演じる俳優らがまた凝縮した演技を見せる。大胆な演出的な着想と繊細な演技。おそらく、文学でも出来ない、映画でも出来ない、舞台だからこそ出来る表現(つまり生そのもの)を尽くして、どうしようもない他者との距離やら絶望感、自意識といった抽象的なものが立体化されているのを観ていて、途中から客観的に観られなくなってしまった。
他者から見た私と私の思っている私の不一致に苦悩する溝口、原作にはないけれども柏木のビッコをからかうが如く振る舞う溝口と柏木の間の緊迫感など、ああした演技には息をのむ。あの孤独感やら他者との隔絶感が、ほんの些細な台詞や表情などに如実にあらわれ、ちょっと格好つけた言い方をすると、こちらの実存に共振してしまって息が詰まった。途中休憩20分を入れた約3時間、正にあっと言う間で、存分に堪能した。
勿論、こちらが「金閣寺」を何度も読んで思い入れたっぷりというのもあり、昨夏仕事で演出家に今回の舞台についてインタビューしたこともあって大いに期待していたのでかなりひいき目に観ていたというのもある。でも、台詞劇で、演技と演出でなにか実存をえぐられるような観劇体験というのは本当に何年ぶりだろうという舞台であり、もう今年第一の舞台はこれに決定というほかない。2月11日所見。