漁書日誌 3.0

はてなダイアリー廃止(201901)を受けてはてなブログに移設しました。

夏のノフラージュ

先月末に来た扶桑書房目録速報で注文した本と、それとは別にネット古書店に注文したものが届いた。

清水澄子「さゝやき」(宝文館)昭和2年5月1日105版凾欠2000円
井東憲「地獄の出来事」(総文館)大正12年4月8日8版凾欠1525円
「さゝやき」が扶桑目録で注文したもの。初版は大正15年2月10日で、南部修太郎が序文。清水澄子は17歳で鉄道自殺した女子高生で、詩やら物語やらもよくし、没後「令女界」に作品が発表されたりしている。いわば「さゝやき」は遺稿集で、日記の一部や遺書、その他の創作や手紙、家族等の文章なども収録した本である。羽二重に銀箔での表紙がとても瀟洒。実は大分前に西部古書会館で背欠を300円くらいで買ったことがあり読んでいて、そのうち綺麗なものが欲しかったので注文したもの。しかしそれにしても、軽く100版超えていて本当かなと思う反面、当時の同年代女子を中心として絶大な反響を呼んだのかとも思われる。確かこれとは別の遺稿集だったか追悼文集だったかもある筈。吉屋信子やら、当時の少女雑誌投稿少女ムーヴメントなど、この本を基点にしつつ改めて考えてみるのも必要だろう。
もう一冊の「地獄の出来事」は重版凾欠でもあるし適価かと。こちらの初版は大正12年3月20日。半月で8版とは、これも結構売れた本のようにも思える。大給近清による装幀、表紙は木版ではなく印刷。
****************************
お次は演劇の話題。
8月31日の日曜、発売即完売で、しかし何とか追加公演のチケットを入手できた飴屋法水演出「グランギニョル未来」@横浜創造都市センター、に行ってきた。


椹木野衣による戯曲は来月号の「新潮」に発表されるという。いやまたこれが、なかなか一筋縄ではいかないようなパフォーマンスであった。そう、戯曲があり、演出家がいて、上演されるということで、「演劇」ではあるのだが、しかし私見によればドラマの上演といった一般的な芝居とは全く異なるもので、「演劇」上演という形を借りた飴屋氏の現代美術作品、のように受け取った。つまり演劇というよりパフォーマンスである。
見た席も悪かったし、隣に変な客が居て始終ソワソワ動き集中力をそがれたというのもあるのだが、普通に台詞からドラマを追おうと思ってもなかなかついて行けず、曰くありげで抽象的だったりする台詞のやり取りなどが断片的に続き、意図的にハッキリと発声を客に届かせない演技、演出、出演者で、始めからそこ(台詞の組み立てによるドラマ)が重要というわけではないのだろうと思っていた。だから、何か印象的な断片(場)が積み重なり、(おそらく素人の)中学生などの子供、外人の子供などが加わり、と思うとある場面では戯曲通りだろう台詞と地続きに、何か観客に自己紹介的に話しかけるような台詞をいうシーンを入れたり、これで外連味たっぷりな装置などをあれこれと使うんだったら、或る意味、寺山の(中期の)芝居にちょっと似てるなあと思ったことであった。
その後、後半になって大きな木箱が出てきて、ああこれは「バ  ング  ント」展のことか、とか、クレーンで宙吊りになってそれを自分で操作するとか、これは確かワタリウムでやった寺山修司展の時のイベントでやったパフォーマンスと同じだなあとか、飴屋氏自身のそれまでの活動への自己言及なのかと気づいた。これは「演劇」としての現代美術なのだなあと思った所以である。つまり、自己批評でもあり、自身の「演劇」への問いなのでもあろう。御巣鷹山への日航機事故を元にしたという宣伝を見て赴いたわけだが、実際そういう知識がなければよくわからなかったかもしれない。段差のある客席は正面のみで、そこの席を取れないと、段差が無く(つまり前の人の頭で全然見えない)つらく、じっくり見てみたかった。音楽はPhewで、開場してから開演までの1時間、ずっと場内に客入れ音楽が流れており、あーこれはこれで、客へのマッサージなのかと(客は1時間もそれを耳にして、開演時分には慣れてしまうのだが、これは日常からこの特殊なパフォーマンス空間への慣れ=ある種のイニシエーションであったのかもしれない)。音響はサスガに凝っており、協賛にボーズとあったが、おそらく墜落音のゴゴゴと響く時は、客席もグラグラ揺れるほどの重低音で、ダムタイプ公演の音響効果を思い出した。
(追記)東京グランギニョルの「ライチ」というのは、御巣鷹山の事故に触発されての公演だったと今更知った(「SKINペーパーバック」あとがき)。だから今回のは自身の過去の演劇への問い直しなのでもあるのか、だから「グランギニョル未来」なんていうタイトルで、東京グランギニョルを思わせるグランギニョルという言葉を使ったのかあと思った次第。