漁書日誌 3.0

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七夕そして澁澤龍彦没して30年

ここのところタイミングを逸したり、金欠だったりして古書の方はまあこれといって何もないのであるが、それでもまあ明治古典会七夕古書入札市には赴いた。


生憎、土曜日(一般下見2日目)は途中から雨ではあったが、盛況のようす。まずは今回実際に手に取って見たかった三島由紀夫の「剣」原稿99枚揃、最低入札価格500万円というシロモノから。

400字詰原稿用紙が半分に折られて製本してあった。製本といっても、よくあるように折帖仕立てではなく、ホントに安っぽい製本でとても最低落札価に見合うようなものではなかった。まあそれはいいとして、中身。三島由紀夫というと、原稿も楷書で直しもないというようなイメージがあるようだが、そんなことはなく、とりわけ今回のこの原稿はあちらこちらに推敲の跡があって、それが面白い。「剣」の原稿は市場に出て来たのは今回が初ではなかろうか。しかしこの不況にあって500万円とは。またガリマールから出ている「潮騒」仏訳本の26部限定後ゴネ製本の特装本。これは前にも同じ装幀の「午後の曳航」が出ていたことがあるが、背が革装で平はゴムのような素材でモダンなもの。これ、革装とかならまだしもなのだろうが、却ってモダンな装幀が評価下げているような気もする。その他、例えば深沢七郎の成績表とか、森茉莉の出版記念会の芳名帳(意外と来場者少ないなあ)なんかを見て回り、次に目玉商品を展示している階に移る。
例えば北村透谷の「楚囚の詩」、しかもである。表紙にハンコが捺してあるが、これが昭和初期に古書として同書が初めて掘り出された本であることの証拠。これがあの古書界では伝説の本かと手に取ってしみじみと見る。実物を手にするのは初めてだが、ペラペラな小冊子、先日買った「日本唱歌集」みたいな感じの本である。それから、同じく透谷だが、献呈署名の入った「蓬莱曲」。透谷の署名本は極めて珍しい由。しかも朱筆でしてあり、献呈先を消して所蔵者が名前を書き足しているというもの。所蔵者といっても戸川残花だからいいのだが。漱石「行人」戸川秋骨夏目金之助名義献呈署名本、尾崎翠第七官界彷徨」、小栗虫太郎原稿反古等一括、乱歩の原稿(文庫本収録時の改作のようで、文庫の切れ端がついている)、寺山修司短歌入り「新鋭歌集」等々をじっくり見て回った。やっぱり、こういうものは直に見てみないとよくわからないものがある。
無論、ワタクシといえばあれこれと手に取って見て来ただけで入札はしていない。
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15日の土曜日は、山の上ホテルに「澁澤龍彦没後30年を迎える会」に参加してきた。お誘い頂いたものではあったが、澁澤と旧知の作家たちや関係者、担当編集者たち、それから澁澤山脈に連なるであろう作家、またその周辺の人たちと、なんでも総勢170名以上の参加があった由。18時半、山の上ホテルの銀河の間で立食形式で催された。

まずは世田谷文学館館長による挨拶、乾杯のあとは高橋睦郎巖谷國士平出隆麿赤児……と関係者のあいさつが続く。ここでご歓談タイムが入ってから、澁澤龍子や担当編集者たちのスピーチ、そして、四方田犬彦、谷川渥、東雅夫といった面々によるスピーチが続いて行く。とりわけ担当編集者諸氏によるスピーチには、ワタクシは初めて耳にするようなエピソードなどもあって、それだけでも十二分に楽しめた。
澁澤が逝った1987年8月にワタクシは何をしていただろうか。太宰くらいは読み始めていたが、もっぱらファミコンとTV(風雲たけし城とかTBSドラマとか、フジの深夜番組とか)ばかりの、ひねくれた中学生であって、その後の素地があったかもしれないが、澁澤のしの字も知らなかった。名を知るのは高校生、実際に読むようになるのは大学生になってからである。サド、ジャリ、ユイスマンスの翻訳から入った最初は変わった仏文学者くらいの認識であったが、古書店で見かけた桃源社版『黒魔術の手帖』には衝撃を受けた。真っ黒な装幀、一分の隙もないスタイリズム、あんなにオブジェ欲をかき立てられたことはなかった。中学時代はご多分に漏れず「誰でもかかる太宰病」ではあったが一種の流行感冒のようなものであって、本当に「文学」にはまっていったのはだから、中身よりも装幀=外形であったのだ。まず書架に列べたい本、次に中身、という倒錯。それからは、専ら古書目録がワタクシの教科書であり、眠くなる文学史の本には目もくれずに造本、装幀本位で古書をほしがるようになった。未だ澁澤本が高嶺の花であった頃の話であり、いまから考えると馬鹿値で重版本を嬉々として買って読んでいたものだ。