漁書日誌 3.0

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川島幸希「『月に吠える』の論文」が出た

日本古書通信」今月号に川島幸希「『月に吠える』の論文——弥永徒史子さんの思い出と共に(前編)」が出た。これがまあすごい。
牧義之『伏字の文化史』(森話社)に対する反論の形をとりつつも、学術的な面とは別に、古書の世界の深淵を垣間見せてくれるという意味で非常に興味深かった。
川島氏は一定の評価をしつつも同著について〈牧氏の推論の根幹を揺るがしかねない一つの重大な疑問点と、看過し得ない二つの明白な誤り〉を指摘する。牧氏の内閲と国会図書館所蔵本奥付書き入れを根拠とした新説に、反証として、装幀者である恩地孝四觔の日記「愚人日記」(田中清光『月映の画家たち』筑摩書房に収録紹介)を挙げ、〈「愚人日記」の恩地の記述を覆さなければ『月に吠える』の内閲は机上の空論と結論付けざるを得ない〉と問題の在処を指摘する。
おそらくメインであるところの「内閲」制度とその実体といったメディア史的観点からの問題や文献的問題はここでは措いて、古書ブログであるここで注目したいのは、川島氏が二点目に指摘する「断り文」のことである。
『月に吠える』は「愛隣」「恋を恋する人」がその筋よりの注意にて削除され刊行された。牧氏はこの「断り文」を〈挟み込み〉〈糊付けもされず〉と記し、これに対して川島氏が反論。〈実際の『月に吠える』削除版は、本のノド近くまで切った削除ページの切れ端を糊代にして、「断り文」を「貼付」している〉とする。ここで、いやそんなこといったって、川島氏が買った『月に吠える』がたまたま旧蔵者がそう貼付しただけで、自分が持っているものがそうだから全部がそうだと無理な想像をしているだけではないか、などという浅はかな反論を覆す記述が出てくる。川島氏は述べる。〈管見に入った『月に吠える』削除版は約四十冊だが、三冊を除き「断り文」は貼付されていた〉。その三冊というのも、二冊は後版『月に吠える』の当該箇所を貼付して無削除を装った偽無削除本で「断り文」無し、一冊は国会図書館所蔵本で、これのみが「断り文」が挟み込まれていた、という(これとて、貼付されていたものが外れてしまった可能性も指摘している)。
この、削除版だけで四十冊実見してきたという経験に裏打ちされた圧倒的な言葉の重みこそ、氏の古書ウン十年になる種々の蓄積と経験から出てくる重さであってまさに比類がない。後半に出てくる、実見されたという削除版の献呈署名本(有島生馬宛、与謝野晶子宛、河野慎吾宛、山村墓鳥宛、石井直三郎宛、竹村敏郎宛、長谷川某宛)、無削除本五冊(しかも四冊は架蔵!)といった記述も同等である(幾つかは昨年の宮沢賢治展でワタクシも実見、ほか扶桑書房目録で幾つか写真で見たことがあるような)。
観念や理屈よりも圧倒的にブツそれ自体が物を言うというわけである。『月に吠える』にまつわるメディア史的なあれこれよりも、まずはこういうところに目が行ってしまうワタクシがビョーキなのかもしれないが、理屈ではあり得ないであろうが実際出て来てしまう古書、噂だけでだれも実見したことがない幽霊的古書など、古書の世界は予測不可能な深淵を抱えているといってもいい。おそらくそういう深淵に触れる可能性にこそ、古書の世界の魅力の一つがあるのだろう。
ワタクシも文学学徒の末席を汚すぼんくら書生の端くれだが、こうした深淵に魅惑されつつもただ巻き込まれるのではなく常に実見実証の重みを念頭にしてものを考えていきたいと思うものである。国会図書館納本分と一般流布本との違いについては、そういえば、「初版本」創刊号掲載の座談会でも武井武男『地の祭』についてあれこれ出ていたなあと思い出した。国会図書館納本分はやっぱり特殊なので、一般流布本こそ要確認である。

月映(つくはえ)の画家たち―田中恭吉・恩地孝四郎の青春

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