漁書日誌 3.0

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ミシマダブル:わが友ヒットラー観劇

芝居は13時開場の13時半開演。開演10分前くらいにシアターコクーンに到着、席は2階席だがど真ん中、しかも通路側で便利。

幕開き、装置なんかはほぼ「サド候」と同じ。 搬入口を開けて渋谷の外を見せ、ガラス張りの装置を黒ずくめのスタッフが持って来てセットしていく。シャンデリアも「サド候」と同じもの。で、できあがりを「サド候」と比較してしまうと、女装ではないからか不自然さが無く全体的にぐんと見やすい舞台となっていた。
がやっぱり、生田ヒットラーも東山レームも少し無理があるように見えてしまう。まずはレームだが、東山がもともと作りが繊細で、男の中の男だい的野暮臭さがない。野暮でマッチョだけど内面はおセンチ満開という役どころとは正反対の俳優のように思える。頑なさとか愚直という感じは出ていたけれど、徹底的にあの野暮臭さがない。
生田ヒットラーも、熱演はしていたけれど、若すぎるし影のありそうな感じがない。幾ら青年宰相といっても、一応ドイツの首相という役なのに、声からしてさわやか過ぎてどう見ても純真な熱血青年という感じ。それとまあ、おそらく連日の舞台で仕方ないのだろうけれど も、少し声が枯れていて残念でもある。 3幕で、自分の命令でレームらを処刑したあとの、ブルブル震える感じなんかは熱演していたけれど、それと同じくらいの演技を、一応首相まで上り詰めたオジサンのイヤらしさ臭みみたいなものにまでやって欲しかった。
しかしそれをカバーしてあまりあるのが、脇役陣。 平幹クルップは貫禄たっぷりで常に安定感があって、こういう老人役は自家薬籠中。というか老獪すぎてヒットラー喰ってしまっているくらいで、難を言えば、とてもリウマチに悩んでいるような老人に見えないところ。
しかし今回一番よかったのが、シュトラッサー役の木場勝己。「サド候」の時はそれほどの印象もなかったが、むかしながらの左翼政治家とかやらせると抜群にうまい。全体から染み出るような小ずるさなど、やはり年齢の持っている貫禄だろうか。 ヒットラーの左右に侍るレームとシュトラッサーには、それぞれちゃんとラシーヌみたいな長台詞のシーンがあるのだけれども、台詞が段々と謡朗調になってくる感じ、シュトラッサーはちゃんと歌い上げるような盛り上がりが台詞だけで現出していた。台詞のなかのイメージが舞台上に立ち上がるような見せ場のいいシーンなのである。レームはちゃんとこなしていたけれども、やっぱりこなしていただけの気がする。木場の台詞は、ちゃんと舞台上に革命歌が聞こえ血に染まった旗が見えるような気にさせるのに、レームの台詞からは、むせ返るような練兵場の土臭さとか血潮で熱くなった銃身なんかついぞ感じさせることはなかった。
つまり「サド候」と「ヒットラー」、しかも両方とも主役みたいな膨大すぎる台詞をいっぺんに覚えさせて同時に舞台やるというのがどだい無理な話であって、東山は東山でちゃんと一つに役に集中させてやればいいのだろうけれど、無理強いさせて結局損という感じが強い。
しかし今回の収穫としては、いままで「わが友ヒットラー」は二回ほど見たことがあったけれど(法政大ホールでやったORTスズナリで去年やったプロジェクトNatter)、あんなに精彩のあるシュトラッサーは初めて。 今回は、ラストで三島の演説テープ流すとかもなかったし(BGMもうるさいというほどでもなく。ワグナーのタンホイザーとか神々の黄昏とか流していた)、だからまあ今回はシュトラッサーの存在感を改めて認識したというところだけでもめっけものだったかもしれない。
演出でどうのというのは特にないが、レームとヒットラーが青春の日々を回想するところは、舞台の縁に腰掛けたり、やたらと肩を組んだり思い切り抱きしめたりというのが目立った。 なんというか、ホモソーシャルの絆が同性愛的空気と紙一重だ的なものを出そうというのだろうけれども、レームの方が、「言わなくても分かるだろ」的な目で会話する的雰囲気を出さないために、どうも女性ファンの妄想加速のための過剰サービスシーンのように思えてしまうのは考え過ぎか。休憩入れて約3時間。20日昼所見。