漁書日誌 3.0

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ミシマダブル:サド侯爵夫人観劇


今日は渋谷東Bunkamuraシアターコクーンで初日を迎えたミシマダブル「サド侯爵夫人/わが友ヒットラー」の「サド候」を観てきた。当初、チケット発売即完売でどうしようと思ったが、思った通り投機目的も少なからずいたようで簡単に定価以下でネットオークションにてチケット入手。
その前に、Bunkamuraギャラリーで同じく初日を迎えた上田風子個展をじっくり堪能、数年前から気になっていた画家なので初?の画集もうれしくサインを入れてもらったりした。
それはそうと、「サド候」である。期待していた。いや、期待しすぎていたのかもしれない。以下、演出内容についても書くので、読みたくない人は以下に目をやらず踵を返してください。まあ個人の勝手な感想文なので多少手厳しくても見逃してくださいな。
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観劇し終わって、かなり疲れた。 見るのがつらかったと言っていい。今回、女ばかりの登場人物はすべて男性が演じている。元々三島演劇のある種あくの強い主人公を演じるとなると、本人にも相当の毒が要求される。普通にリ アリズムでやってしまっては、とてもかなわないのだ。だから主人公を演じる俳優にもそれに対抗できるようなあくの強さというか、丸山明宏とかああいう人がやってぴったり来るような難しいところがあるのである。今回女形でやるってのもそういう意味があるだろうし、だからそういうことでは、さすがに平幹二朗は役柄と拮抗して十分に存在感を示して毒には毒を的に役を消化していたように思う。 個人的には、実はこの芝居で裏主人公的存在でもあるサン・フォンがどんな風に演じられるか期待していたのだが、これも全体としてみればよく役柄をこなしていたと思う(鞭がうまくピシリと鳴らないのが残念だったが)。シミアーヌは冒頭台詞の言い回しがきつかったが、舞台が進むにつれ徐々にこなれてきた。アンヌは、生田トーマだが、これがなかなか健闘していたと思うのだが、それというのも、ルネが役不足ならぬ俳優不足であったからかもしれない。まわりをガッチリ固めたからこそ、安定もしようが落差も目立つようになる。
まあ初日だから手探りだろうというのもあるし、よくもまああの台詞を最後まで間違えずに言ってのけた、さすが主役はってる意地だなあと感心もする。だってもうひとつ「わが友ヒットラー」の方も同時にこの舞台でやるわけだから、あれを覚えてこの三時間半の長丁場を間違わずやっただけでも尋常ではない努力がその裏にはあるのだろう。でもそれと舞台の出来は話が別である。とにかく台詞は間違わずに言い切るのだけど、平板というか、自分の分の何行かに渡る台詞を、かたまりでボンと投げつけるように済ませる感じ、早口でとにかくこなし終わりたいという意識が見えてしまって、エロキューションもへったくれもない。「サド候」での台詞は、バロック的な(!)言葉の過剰な装飾ばかりだが、それが表層的なものにとどまらず実はそれぞれ意味深な言葉に満ちていて、その言葉を一つ一つ、まくし立てるようにしたり、段々と謡朗調でこなしたりと、そういうメリハリのある処理をしないと、ただの長ったらしい台詞に、つまり台詞が死んでしまうのである。この台詞をこなせるかどうかが(間違わずに言えるかではない)、おそらくこの芝居の一番の難所であり、役者の力量が問われるところでもある。だがもうとにかく間違わずに言い切るぞというそればかり先行してしまって、ご本人もきついのだろう。過去ワタクシの観た数少ないルネの中で一等よかったのは、文学座の高橋礼恵(@新国立劇場)で、さすが文学座と思わせるものがあった……。いやそれでも今回ルネをやった俳優がただ大根だというのではない。二階席からみてもとにかく美形というのはわかったが、ルネはさすがに容貌だけではつとまらない難物中の難物、要するに無謀なミスキャストなのだ。三幕目の少ない台詞のところなどはよくつとめていたと思うのだが、長台詞になるとホント見ていられないほど平板で台詞が浮きまくってしまっており、各幕のラストの決め台詞のところなんか、お相手が平幹だから余計に酷さが際立つ。つらい。観ていて「いい台詞のところなんだから、早く過ぎ去ってくれ」と思うしかなかった。
それから演出。冒頭は、素の舞台に大道具搬入口開けっ放しで、そこにひとつひとつ装置や小道具が裏方によって運び込まれたりして、しかも舞台となる屋敷の部屋の壁が全面鏡張り。そういう外連味はたっぷり楽しめたのだが、三島が台詞だけで世界を構築してやろうと書いたものだのに、それぞれのキャラの長台詞の途中で余計なBGMをさんざん流すので台詞に集中できない。しかもマーラーの「巨人」。わかってる、ヴィスコンティの「ベニスに死す」意識してだろう。坊主の読経のようなのもあったが、でもせっかくの俳優の長台詞を殺しますよそれ。それから今回の舞台で特徴的だったのが、歌舞伎の拍子木だとか、能の鼓とか謡いだとかの音を各所で使うところ。場面によっては、台詞の文章の区切り区切りに拍子木をポンといれてある種のリズム感を出したり演出上の工夫が見えたのだが、その他にも台詞のバックでBGM的に使ったりあんまり使いすぎるとうざったらしくって、ガイジンの変な日本表象みたい。それでキッチュ感を狙っていますというのなら理屈はわかるが、舞台への入りだとかはけの時にまあちょっと能楽の出入りを意識したような所作が見えたような気もするけれど(深読みしすぎか)、あちこちで使われすぎると効果も薄れるし、この舞台は能や歌舞伎を意識しているんだぞと無理矢理押しつけている感じでうるさいばかり。
それから、一幕の終わりの山場のモントルイユとルネのやりとりのところ、これは演出というか照明の問題だけれど、何故複数のサスを二階と中二階の客席だけに向けるのかさっぱり意味不明。しかも舞台上に設置してある照明からというのなら何か演出的意味があろうと思うけれど、中二階の脇に設置した照明から直接客席に向けてである。まぶしくて見えないよ。それも十分間くらい。ちょうど隣席の人が寝息を立てていたが、目覚ましのつもりか、それともルネの連続長台詞シーンをごまかすためかなどと、あれでは意地悪に考えたくもなる。そして、あーまたやってるよというのが、三幕の幕切れでルネがラストの台詞を言い終わった直後、矢庭に三島が自殺したときの演説テープを大音響で流したこと。かなりノイズの入ったなんだかよくわからないようなテープを流して、こんなの単なる雑音でしかない。この演出家、前の彩の国さいたま芸術劇場での「卒塔婆小町」の時もこれをやっていたけれども、蛇足もいいところ。三島のテキストに対峙して新たにテキストの可能性を探ろうという気はなく、なにが何でも三島といえば三島事件でしか捉えることが出来ないのだろう。いまどき一定の年齢層以上じゃないと気づかれもしないよそれ。幾ら新しい役者使おうが何だろうが、こういうところにオールド・エイジの限界が露呈してしまっている。(初日2月2日夜所見)
というか、求めすぎ、期待しすぎだったろうか。これに懲りず「わが友ヒットラー」も行く予定だけど、今度は女形ということもないし、二枚目俳優がバシッと軍服で芝居をこなしたら、さすが二枚目コスプレ大会としてやっぱり絵になるだろうし、それはそれとして無理なく堪能できるのではないかと期待。