漁書日誌 3.0

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仮面と連続近代能楽集

金曜日は五反田遊古会に向かう。注文品が4点もあったが、当たったのは1点のみ。閉場1時間前くらいに到着して、1階ガレージからよく見て行く。少し前ならついでにと買ってしまいそうな本や雑誌もあったけれども、最近はゲルピンでケチケチしているうえに、家の中で本屋雑誌を置く場所が本当になくなってきて、そろそろ階段も満杯になってきているということもあって、なるべく買わない方向で見ていた。それでも、雑誌1冊。それから2階へ。片山廣子翡翠」初版3000円とか、長岡實の私家版「しゃぼん玉」2000円はハズレ、三島由紀夫仮面の告白」重版カバ帯8000円のみ当たり。古書肆田園りぶらりあに注文した室生犀星「蜜のあはれ」初版凾署名入1000円というのは当たったのか外れたのかわからない。2階もザーッとまわったが、よく考えて新書を1冊のみ。なんだかいつもより棚を減らしてテーブルにしていたけれど、本がないということなのか。

三島由紀夫仮面の告白」(河出書房)4版カバ帯8000円
現代流行語研究会編「隠語小辞典」(三一新書)カバ200円
キネマ旬報臨時増刊「名作シナリオ集」(昭33・7)200円
シナリオのは、三島原作映画再録本のため。「仮面の告白」はやっと重版帯を入手。初版には黄色い帯が付いているが、これは古書価が高く入手は無理である。せめて重版でもとようやく。しかしいま8000円はきついな。「豊饒の海」「命売ります」と舞台切符購入が続いてただでさえ貧乏だのに。注文して外れた「しゃぼん玉」という長岡實の私家版には、三島に言及した箇所がチラとあるというので注文したのだが…これ国会図書館にもないのだよなあ。
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五反田から、今度は山手線、西武池袋線と乗り継いで江古田に向かう。

江古田の兎亭というところで「卒塔婆小町」の上演があるのである。家で食べてこなかったので、これはと早めに行き、麺や金時でワンタン麺を食べてから向かう。会場は地下1階が喫茶のようになっており、更に地下2階が会場。かなり小さい細長のスペースで20名くらいで満員。むしろ小劇場向けでもある近代能楽集だが、ベンチとしてハコに布をかけてそれが1個のみで展開。冒頭やたらベンチのアベックシーンが長かった以外は、狭さを逆用したような手作り感のある舞台であったが、ラストのラスト、小町がシケモク拾いしてちゅうちゅうたこかいなと数え始める前に玉音放送がデカデカと流れ、ウームこれは……と思っていると、そこに現代風カップルが登場し、小町を面白がってスマホ撮影してそこで幕、という流れであった。なにがしかの現代批判をというのはわかるけれども、戦後体制批判みたいなものなのかしら。大分前に宮城聡演出の野外劇で「卒塔婆小町」を見た時は(確か)、幕切れ前に公園のベンチにマッカーサーがニュッと現れるという演出だったのを強烈に覚えているが、昭和も遠くになりにけりという解釈なのかしら。ともかくあれこれの解釈を誘発するけれども、幕切れがストンと終わらずちょいとだらついたのがなあと思ったことであった。9月28日夜所見。
で、土曜日である。

土曜日も近代能楽集の小劇場の公演がある。こちらはマチネを見てから、急いで神保町に行って和洋会古書展を覗こうと思っていた。北千住のBuoY。先日、飴屋法水の芝居で初めていった劇場である。劇場というか、健康ランド的施設の廃墟をそのまま流用したような劇場で、地下が会場。お風呂の遺構がそのまま剥き出しに残っている廃墟空間のようななかなか広い場所。
今度は「弱法師」。最初にたどたどしくスマホの電源は切って下さいと案内していた男が、カメラ片手に舞台中央へ。今日は記録のために主演の男のインタビュー映像を撮りますとしゃべり、今回出演の俳優としゃべるのだが、なにか今日はそういう日なのかなと思わせつつも俳優の受け答えがあまりにわざとらしい素っ気なさで、ああこういう仕立てなのねと早々に気がつく。しばらくしてから呼び出されインタビュアーが奥に引っ込み、一人になった俳優が盲目がうんちゃらひとりごち点火したライターに目を近づけ過ぎてアチチと大暴れし奥に引きずり込まれ、ようやく戯曲がスタート。長い割にはどうもなあと芝居の進行を見て行くが、芝居自体はなかなか堂に入っており、特に桜間をやった俳優が年増なのか若いのかよくわからないふしぎな魅力を以て演じていた。で、幕切れの台詞の後、三島の死んだ時の演説テープが会場に流れ出す。ブルータスお前もかの気分である。舞台奥のスクリーンに見立てた白布に映像が映し出される。出演俳優らが、東大の900番教室、国会議事堂の前、おそらく靖国神社境内、というような場所で、自分語りをしたり、戦争が云々とか語る。という流れで、終わり。導入と幕切れ後のやつを取ってしまって、普通にストレートにやればよかったのに(芝居自体はなかなかだった)、やっぱりどうしても三島をいまやることの意味みたいのをこういう形で演出に取り入れなきゃというオブセッションがあるのだよなあ。またそういうのを誘発するのが〝三島作品〟という看板の重さ、否、三島というイメージなのだと思う。
戯曲というテクストと格闘して昭和というものを浮き彫りにするのではなくって、どうしても作者にそれを還元してでしか咀嚼、消化できないというのが、むしろ三島なんて知らないよ世代にこそ猖獗しているのか、としたら考えすぎだろうか。29日昼所見。
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帰宅後、架蔵している「仮面の告白」を並べてみた。貧乏コレクターなので、ボロボロの本ばかりである。

黄色い帯のついている2冊は、裸本に復刻版のカバーと帯をカラーコピーでつけたもの。左から4冊が初版。2冊カバー付。その右隣2冊の裸本が2版。続いてちょっと本冊が薄いの3冊が3版で2冊カバー付。右端3冊が4版で2冊にカバー付。合計12冊。同じ本をここまで集めればほとんどビョーキみたいなものである。復刻版解説によれば4版が最終版らしいので(4版で初版以来の誤植などが訂正された由)、これで全部の版が揃っているわけだが、2版のカバー付がまだないので探索は続く。
で、今回列べてみて初めて気がついたことがあった。3版の本冊が少し薄いのは前々から知っていたが、所持している4版3冊のうち2冊が、見返しが白い上質紙を使用しているということである。初版以来、この本の見返しは糸くずの混じっている和紙を使っていたのだが、4版にこういうのがあったとは。といっても、単に資材不足のためだろうけれども。ただし同じく糸くず和紙を使った4版も1冊あるので、全部ではなかったのだろう。

重版の今回入手した帯が「読売新聞」の年末ベストスリー入りしたことを謳っているので、昭和25年初頭以降のものであろうけれど、それまでの重版に初版と同じ帯がつけられていたのか、など確認のしようのない謎もまだある。初版の黄色い帯は高価すぎて今後も入手は叶わないだろうけれど、カバー欠の裸本重版であれば300円くらいで転がっている。