漁書日誌 3.0

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散歩展と邪宗門

散歩展である。初日である昨日行こうと思っていたのだが、国会図書館でグズグズしておりイケズ仕舞い。注文していた西武美術館で1992年にやった「未来派1909-1944」展図録1500円もハズレ。やっぱり注文殺到だったらしい。まあそれはそうと、今日は芝居を観に都内に出るので五反田にも寄っていこうと考えていた。
でまあ、チラッと神保町に立ち寄った後に五反田へ出て、会場到着は閉場30分前の16時30分。

「映画評論」昭和33年11月号200円
山本健吉編「葛西善蔵集」(新潮文庫)250円
島木健作「赤蛙」(新潮文庫)200円
ユベルマンアウラ・ヒステリカ パリ精神病院の写真図像集」(リブロポート)カバ帯2500円
「映画評論」は一階の外で。「私は貝になりたい」TV版台本収録。目次を見て、対談「『鍵』について」(岸田今日子清岡卓行)というのがあったので読んでみたくなったのだが、何が「鍵」だ、と。短いものだが、対談中清岡が一言だけ「鍵」に触れるだけじゃないの。羊頭狗肉とはこのことか。岸田今日子がどんなこというか…と思っていたのだが。でまあ、二階の会場では、いつものようにザーッと流したのだが、「アウラ・ヒステリカ」は嬉しい収穫。これ、書名だけは長らく知っていてちょっと欲しいなあと思っていたのだが、実物は見たことがなかった。「日本の古本屋」でも高い値段するし、すっかり忘れていたのだが、背のタイトルを見て、おおこれはと手にとってみると、2500円という。今日の懐具合としてはそれでもかなりキツイのだが、仕方あるまい。
それと島木健作新潮文庫島木健作とか、まあ普段は読まないのですよ。それをわざわざ買ったのは、実はわけがある。

見て下さい。製本ミス、というか、エラー本というか。思い切り背表紙がずれちゃっています。ご覧の通り背中は無地。背に来るはずの背文字が表紙にずれ込んでいる、という珍品。無論、背中に来る筈の紐栞も表見返しの所に。まあ、レアといえばレアだが、ただの不良品に過ぎないといえばそれまで。
その後、新宿経由で阿佐ヶ谷へ向かう。
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で、今日みに行った芝居は、劇団A.P.B-Tokyo公演「邪宗門」(寺山修司作)@ザムザ阿佐ヶ谷、である。ソワレ。マメ山田、昭和精吾ほか、外人さんなんかも出ていて(天井桟敷が昭和47年1月30日に渋谷公会堂でやった時も外人さんが出ていた)へーと思った。
しかしこの芝居は色々な意味で難しい。つまり、物語よりも、舞台で演技する俳優、客席で鑑賞する客という、劇場で芝居を観るという制度をぶち壊そう、という暴力的実験性が先行しているから、である。だから当時、乱闘騒ぎになった(という伝説がある。当時の実況録音レコードなど聴くと、確かにヤジとかスゴイ)。「盲人書簡」でもそうだが、ラストに衣裳を脱いで私服になった俳優が一人一人名乗りを上げるのだけれど、それをこの2010年に、どうやって料理するのか、というのに関心があった。いま寺山戯曲集に入っているのは、一応、上演記録を文字起こししたもの、ということになっていて(初出の「地下演劇」掲載テキストでも同じ)、物語ばかりでなくそれを壊していく過程もしっかり記されている。これをどうやるか。例えば、70年代初頭の物騒な季節でもなし、前に万有引力が法政大ホールで「盲人書簡」やった時は、再現としての上演だった。こないだ劇団池の下がやった時は、名乗りはカットして物語を優先させていた。共に演出家の見識と思う。
でまあ、今回。ほぼ戯曲通りにやっていた(初演で三上寛が独唱するシーンなどはカット)。当時の舞台写真などで見るような振付も見られた。が、最初の方のシーンで、全く別の寺山の台本「上海異人娼館」の場面を入れていた。娼館での娼婦の教育シーンのようなものだ。確かにこれを入れると、娼婦の実態というかどんなに生き地獄か的な意味合いも出てくるのだが、所詮別設定の芝居であるので、そのシーンだけ、台詞に「日本軍が」とか「苦力」とか「支那中の」とか、舞台が戦時中の大陸だけあってそんなものがちりばめられており、これでは、そういう場所設定の具体的台詞のない「邪宗門」をやるのに「これは戦時中の大陸での話か」と観客を誤解させてしまうではないか、などと思った。実は「邪宗門」にこの場面をアレンジして入れているのは、ここが初めてやったことではない。確か1990年の夏にスズナリで月蝕がやった「邪宗門」や93年だったかに同所でやった「盲人書簡」もそうだったように記憶する。いやまあしかし、この芝居で一番大変なのは、客入れの間ずっと狂女節を躍り続けキチガイじみた哄笑を続ける女郎役の俳優だろう。今日はおしていて40分間も客入れだった。その間中ロスコもガンガン炊いていたし、あれだけでノドガラガラの上にグッタリだろうなあ、と。しかし考えてみれば、客はJ.A.シーザーのおどろおどろしい土俗ロックでああいうシーンを客入れの間中ずっと見せられるわけで、それはそれで劇世界の導入としては、観客を異質な世界に慣らすマッサージみたいなもんだったんだなあ、ということに気が付いた。20日まで。